母の介護の必要性の第一要因は
足が不自由であると言うことだ。
しかしただ足が不自由であると言うことだけではなく
母はその内臓疾患から
血管が非常に脆弱で、
転倒しかけて、ちょっと腕をつかんだだけでも
その部分が内出血することで、
本人が気づかないうちに
内出血して腕や足に黒ずんだ箇所ができていることも頻繁にあり、
ひどい場合には、病院でその部分を取り除いてもらわなければならないほどに悪化することもある。
転倒で最も怖いのは
頭部を打った場合である。
当然頭部の血管も脆くなっているために
脳内出血を引き起こしかねないことで、
むしろ
いままでそうならなかったことが奇跡みたいなものだ。
介護調査のときでも
市役所へ介護認定の結果について尋ねて行ったときでも
必ずそのことが最も懸念していることだと言ってきている。
介護認定調査員にも
体のあちこちにある黒い痣も見てもらっているし、
医師の診断書にも転倒の危険性を指摘してもらっている。
いわば爆弾を抱えているようなもので、
本人が一番気になっていることなのだが、
どうも他人(介護認定に関わる人たち)には、ピンとこないらしい。
このことで後に
市役所の介護認定の係りの職員と
ひと悶着あって
私の怒りが爆発することになった。
●狭心症と糖尿病性腎症
母には30年ほど前から狭心症があり、
救急車のお世話になることも二度や三度では収まらない。
かつて大阪市の警察病院の名医と言われている医師のところまで
(東京からも通ってくる患者がいるくらいだった)
何度も通っていたが
まだ心臓カテーテルが発達していないころで
心臓の下部1/3くらいは良く見えずに確認できなかった。
それでも何ヶ所かは血管が詰まり気味になっていると知らされた。
阪南市に引越しをしてきてから
泉佐野市の現在通院している病院では
そのころには心臓のすべてが心臓カテーテルで見えるようになっていた。
やはり狭心症には間違いなく
原因のひとつに心因性のものがあると言うことも分かった。
この心因性というのが、
これからの母の病状に
いろいろと問題を起こしてくるのであった。
さて現在はこの狭心症は既往症ではあるが
いくらかは落ち着いているのでその点は少しは安心しているが
もっと厄介な病気が悪化してきていた。
もともと母は糖尿病を患っていた。
しかしそれほど重いものではなかったし
度々の入院で食事制限をされていて
糖尿病そのものは深刻なことにはなっていなかった。
しかし糖尿病の影響は体のあちこちに影響を及ぼしていた。
ひとつは眼への影響で、
現在は白内障と緑内障を患っている。
もうひとつは糖尿性腎症に発展したことで、
一昨年、入院中に急に意識不明になり
その後すぐに意識は回復したものの
回復後一週間くらい、記憶が飛んでしまっていたのだ。
回復後、人工透析を行っていたのだが
一週間くらいして、それまでの事をまったく忘れてしまっていることに気づいた。
私や妻がそれまで母と会って話していたことも
まったく覚えていなくて
自分がなぜ透析を受けているのかも分からなかった。
それは一時的なこととして、
問題は人工透析のことであった。
母の血管は非常にもろくて
長期間の人工透析には耐えられないため、
なんとか人工透析をしなくても良いようにと
これから厳しい食事療法をすることにした。
母はいまだに糖尿病と糖尿性腎症の違いが良く分からず
自分では食事のコントロールができない。
糖尿病の時にはカロリーが制限されていたため
砂糖の代わりに人口甘味料を使い
空腹時には寒天ゼリーなどの低カロリー製品などを食べていたが、
糖尿性腎症では
インスリンを使用しているため
一定のカロリーを確保しないと
今度は低血糖症を引き起こし
生命の危険にも晒されることになる。
しかしいまだに寒天食品を買ってくるし
糖尿病用の人口甘味料を買ってくる。
そして甘いものを避けるようにしている。
長年の糖尿病生活によって
考え方の切り替えができないのであろう。
しかしそれを放って置いては、
低血糖症で倒れてしまい危険である。
母は足が不自由なため
調理などは危なくてさせられない。
しかも糖尿性腎症は
カロリー(当時は1200kcal)、タンパク制限、塩分制限、カリウム制限、ビタミンk制限に加えて
ワファリンを服用しているため、特定食品制限も必須であった。
80歳の母にはこれを計算して調理をするなど
到底無理な注文である。
そこで私がこれからずっと毎日母の食事を計算しながら作ることになった。
その結果、食事制限の枠が緩められ
いまでは割と母の好きなものも多く食べさせてあげれるようになった。
しかしそのように好転するまでは大変であった。
インスリンを打っている以上
一定のカロリーをとらないと
低血糖症を起こすので
何とか食べるように言うと
急に泣き出したり、
おいしくも無い低タンパクご飯も
何とか食べれるように工夫して
そのときには、これだったらちゃんと食べれると言っていたのが、
後日には、あんなもの見るのもぞっとすると言って
まったく受け付けなくなってしまったり、
年齢相応のことはあるとは言うものの、
食事の好き嫌いも激しく、
かといって人工透析だけは避けなければならないし、
このころの私は外出もままならず
仕事もかなり制限してきた。
食事に関する介護は
自力で食べることができない場合のみ介護扱いで、
調理は介護には当たらないとされているが(いつから?)
実際は、じゃあ誰が食事を作るの?
と言うことになる。
私の時間を返せ!って、誰に言えばいいんでしょう。
時間が介護の程度を測る単位なんじゃないですか?
救急車のお世話になることも二度や三度では収まらない。
かつて大阪市の警察病院の名医と言われている医師のところまで
(東京からも通ってくる患者がいるくらいだった)
何度も通っていたが
まだ心臓カテーテルが発達していないころで
心臓の下部1/3くらいは良く見えずに確認できなかった。
それでも何ヶ所かは血管が詰まり気味になっていると知らされた。
阪南市に引越しをしてきてから
泉佐野市の現在通院している病院では
そのころには心臓のすべてが心臓カテーテルで見えるようになっていた。
やはり狭心症には間違いなく
原因のひとつに心因性のものがあると言うことも分かった。
この心因性というのが、
これからの母の病状に
いろいろと問題を起こしてくるのであった。
さて現在はこの狭心症は既往症ではあるが
いくらかは落ち着いているのでその点は少しは安心しているが
もっと厄介な病気が悪化してきていた。
もともと母は糖尿病を患っていた。
しかしそれほど重いものではなかったし
度々の入院で食事制限をされていて
糖尿病そのものは深刻なことにはなっていなかった。
しかし糖尿病の影響は体のあちこちに影響を及ぼしていた。
ひとつは眼への影響で、
現在は白内障と緑内障を患っている。
もうひとつは糖尿性腎症に発展したことで、
一昨年、入院中に急に意識不明になり
その後すぐに意識は回復したものの
回復後一週間くらい、記憶が飛んでしまっていたのだ。
回復後、人工透析を行っていたのだが
一週間くらいして、それまでの事をまったく忘れてしまっていることに気づいた。
私や妻がそれまで母と会って話していたことも
まったく覚えていなくて
自分がなぜ透析を受けているのかも分からなかった。
それは一時的なこととして、
問題は人工透析のことであった。
母の血管は非常にもろくて
長期間の人工透析には耐えられないため、
なんとか人工透析をしなくても良いようにと
これから厳しい食事療法をすることにした。
母はいまだに糖尿病と糖尿性腎症の違いが良く分からず
自分では食事のコントロールができない。
糖尿病の時にはカロリーが制限されていたため
砂糖の代わりに人口甘味料を使い
空腹時には寒天ゼリーなどの低カロリー製品などを食べていたが、
糖尿性腎症では
インスリンを使用しているため
一定のカロリーを確保しないと
今度は低血糖症を引き起こし
生命の危険にも晒されることになる。
しかしいまだに寒天食品を買ってくるし
糖尿病用の人口甘味料を買ってくる。
そして甘いものを避けるようにしている。
長年の糖尿病生活によって
考え方の切り替えができないのであろう。
しかしそれを放って置いては、
低血糖症で倒れてしまい危険である。
母は足が不自由なため
調理などは危なくてさせられない。
しかも糖尿性腎症は
カロリー(当時は1200kcal)、タンパク制限、塩分制限、カリウム制限、ビタミンk制限に加えて
ワファリンを服用しているため、特定食品制限も必須であった。
80歳の母にはこれを計算して調理をするなど
到底無理な注文である。
そこで私がこれからずっと毎日母の食事を計算しながら作ることになった。
その結果、食事制限の枠が緩められ
いまでは割と母の好きなものも多く食べさせてあげれるようになった。
しかしそのように好転するまでは大変であった。
インスリンを打っている以上
一定のカロリーをとらないと
低血糖症を起こすので
何とか食べるように言うと
急に泣き出したり、
おいしくも無い低タンパクご飯も
何とか食べれるように工夫して
そのときには、これだったらちゃんと食べれると言っていたのが、
後日には、あんなもの見るのもぞっとすると言って
まったく受け付けなくなってしまったり、
年齢相応のことはあるとは言うものの、
食事の好き嫌いも激しく、
かといって人工透析だけは避けなければならないし、
このころの私は外出もままならず
仕事もかなり制限してきた。
食事に関する介護は
自力で食べることができない場合のみ介護扱いで、
調理は介護には当たらないとされているが(いつから?)
実際は、じゃあ誰が食事を作るの?
と言うことになる。
私の時間を返せ!って、誰に言えばいいんでしょう。
時間が介護の程度を測る単位なんじゃないですか?
●電動カートを乗り始めて
母は、大正末期の生まれで現在は80歳を超えている。
まあ、年齢なりの衰えはあるし、それなりの疾病もある。
しかし介護が必要になったのは別の疾病でのことで、
両ひざの関節が擦り切れて一部の骨が尖りだしてきたために、
歩くたびにひざが痛くなってきたからで、
平成4年4月4日
(なんと覚えやすいというか、縁起が・・・)
特に痛みのひどい右ひざ関節をチタン合金の関節に取り替える手術をした。
リハビリにはおよそ半年をかけて
杖をついて自力で歩けるようになった。
しかし長い距離を歩くことはできなかったので
移動手段として電動カートを買った。
いつも良くしてもらっているスズキオートの店長さんに
スズキの三輪電動カートを取り寄せてもらったのだが
「福祉用具は値引きしないようにと官庁から言われている」と
申し分けなさそうに言っていて、
代わりに別のものをいっぱい付けてくれた。
本当にこの店長さんは気持ちの良い人で
いつも親身になって車のことを世話してくれていて、
以前乗っていた三菱の車もこのスズキの店で買った。
そんな人を困らせるような通達を官庁は出している。
”福祉用具は内容の割りに高すぎる”
そんな実態を知るようになったのはこの頃からであった。
さて、その電動カートであるが、
いきさつはともかく、母の足代わりとして、すばらしい働きを見せてくれるのであった。
我が家からその病院までは、電車で4駅だが
家から最寄の駅までは歩いても15分くらいかかる(私の足で)。
しかも当時まだ電動カートが珍しかった時代
電動カートで電車に乗る人などほとんど皆無で(乗っても良いのだが)
ショッピングセンターでも、電動カーに乗っていると、
あからさまに嫌な顔をする人もいて、
母は電動カートで電車に乗ることを嫌がった。
我が家から病院までは道路の距離で約10kmである。
最高速度が時速6kmの電動カートでは、
片道で2時間かかることになる。
しかし母は、これを往復していたのであった。
ただし天候が悪いときや真夏や冬は無理で
バッテリーが少し古くなってきたときも、
途中で止まる恐れがあったので、
そのときは私が車で送迎していた。
当時は父がパーキンソン病で入院していたりで
遠くの堺市の病院(皮膚病関連で)に入院して、
母が泉佐野市の病院に入院していたときは、
病院巡りだけで丸一日を要していたものだ。
このときにすでに私の介護人生が始まっていた!。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
それからおよそ10年間、この電動カートは、
母の貴重な足となり活躍し、
懸念されていたもう片方のひざ関節の悪化も軽減され
現在もまだ手術しない状態を保っている。
しかいこの電動カートが充電系の疲労によって
走行距離が急激に低下してきて
長時間の走行が不可能になってきたとき
母の体力も長時間の外出が困難になってきていた。
往復20kmの遠征ももう実現することは無い。
今ではせいぜい往復5kmくらいが限界だろう。
さてそろそろ寿命が来た電動カートをどうしようかと思っていたときに
介護保険制度が始まり
母は、「要介護1」と認定され、
電動カートのレンタルができると分かり、
早速申し込んだ。
今までは自費で買った電動カートで、バッテリーももちろん自費で買わなくてはならないのだが、
ひとつ2万数千円し、それが2台必要で、しかもほとんど一年しか持たない。
今回のレンタルカートでは、
諸費用込みで年間3万円程度で、
今までのバッテリー代よりも安くなったのだ。
これは大いに助かった。
買い換えて維持費を負担してとなると
これが結構大きな負担と成ると思っていたからで、
介護保険制度の良い面が出たと思っている。
ただし電動ベッド(父の場合だったが)は以前は無償だったのに
この時からは費用がかかることになっていた。
しかしこれで母の外出の足が確保でき安心していた。
この時は・・・・・
まあ、年齢なりの衰えはあるし、それなりの疾病もある。
しかし介護が必要になったのは別の疾病でのことで、
両ひざの関節が擦り切れて一部の骨が尖りだしてきたために、
歩くたびにひざが痛くなってきたからで、
平成4年4月4日
(なんと覚えやすいというか、縁起が・・・)
特に痛みのひどい右ひざ関節をチタン合金の関節に取り替える手術をした。
リハビリにはおよそ半年をかけて
杖をついて自力で歩けるようになった。
しかし長い距離を歩くことはできなかったので
移動手段として電動カートを買った。
いつも良くしてもらっているスズキオートの店長さんに
スズキの三輪電動カートを取り寄せてもらったのだが
「福祉用具は値引きしないようにと官庁から言われている」と
申し分けなさそうに言っていて、
代わりに別のものをいっぱい付けてくれた。
本当にこの店長さんは気持ちの良い人で
いつも親身になって車のことを世話してくれていて、
以前乗っていた三菱の車もこのスズキの店で買った。
そんな人を困らせるような通達を官庁は出している。
”福祉用具は内容の割りに高すぎる”
そんな実態を知るようになったのはこの頃からであった。
さて、その電動カートであるが、
いきさつはともかく、母の足代わりとして、すばらしい働きを見せてくれるのであった。
我が家からその病院までは、電車で4駅だが
家から最寄の駅までは歩いても15分くらいかかる(私の足で)。
しかも当時まだ電動カートが珍しかった時代
電動カートで電車に乗る人などほとんど皆無で(乗っても良いのだが)
ショッピングセンターでも、電動カーに乗っていると、
あからさまに嫌な顔をする人もいて、
母は電動カートで電車に乗ることを嫌がった。
我が家から病院までは道路の距離で約10kmである。
最高速度が時速6kmの電動カートでは、
片道で2時間かかることになる。
しかし母は、これを往復していたのであった。
ただし天候が悪いときや真夏や冬は無理で
バッテリーが少し古くなってきたときも、
途中で止まる恐れがあったので、
そのときは私が車で送迎していた。
当時は父がパーキンソン病で入院していたりで
遠くの堺市の病院(皮膚病関連で)に入院して、
母が泉佐野市の病院に入院していたときは、
病院巡りだけで丸一日を要していたものだ。
このときにすでに私の介護人生が始まっていた!。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
それからおよそ10年間、この電動カートは、
母の貴重な足となり活躍し、
懸念されていたもう片方のひざ関節の悪化も軽減され
現在もまだ手術しない状態を保っている。
しかいこの電動カートが充電系の疲労によって
走行距離が急激に低下してきて
長時間の走行が不可能になってきたとき
母の体力も長時間の外出が困難になってきていた。
往復20kmの遠征ももう実現することは無い。
今ではせいぜい往復5kmくらいが限界だろう。
さてそろそろ寿命が来た電動カートをどうしようかと思っていたときに
介護保険制度が始まり
母は、「要介護1」と認定され、
電動カートのレンタルができると分かり、
早速申し込んだ。
今までは自費で買った電動カートで、バッテリーももちろん自費で買わなくてはならないのだが、
ひとつ2万数千円し、それが2台必要で、しかもほとんど一年しか持たない。
今回のレンタルカートでは、
諸費用込みで年間3万円程度で、
今までのバッテリー代よりも安くなったのだ。
これは大いに助かった。
買い換えて維持費を負担してとなると
これが結構大きな負担と成ると思っていたからで、
介護保険制度の良い面が出たと思っている。
ただし電動ベッド(父の場合だったが)は以前は無償だったのに
この時からは費用がかかることになっていた。
しかしこれで母の外出の足が確保でき安心していた。
この時は・・・・・
事の始まり
平成18年4月から介護保険法が改正され、従来のサービスが受けられなくなる可能性が高くなった。
4月の末頃、TVのニュースでは、要介護1の約8割もの人たちが要支援2に落とされて、電動車いすや電動ベッドのレンタルサービスを受けられなくなっていると報じていたため、阪南市役所へ赴き、市の対応がどうなのか聞きに行った。
社会福祉課の介護認定の係で
「まだ始まったばかりなので、具体的な対応は決まっていないので判らない」と言われ、「問い合わせの件は会議で決まったら連絡させていただきます」と言うことで担当者は席を立った・・・・が!そこで私が「どうやって連絡するのですか?」 「私は、名前も住所も電話番号も何も言ってませんよ!」 この担当者はどうやって私に連絡するつもりだったのか?
つまり始めから連絡する気など無く、ただただ窓口から追い払うのだけが目的で対応していたのだった。
現に、名刺を渡したにもかかわらず、その後8ヶ月たっても連絡は無かった。
その後12月に母の介護認定の結果が通知された。要支援2であった。何の特記事項も無い。このままでは15年近く乗っている電動カーのレンタルも取り上げられてしまう!
年末、急遽市役所に行き、事態の説明を求めに行ったが、そのときも担当者の対応に思わず怒りが爆発した
4月の末頃、TVのニュースでは、要介護1の約8割もの人たちが要支援2に落とされて、電動車いすや電動ベッドのレンタルサービスを受けられなくなっていると報じていたため、阪南市役所へ赴き、市の対応がどうなのか聞きに行った。
社会福祉課の介護認定の係で
「まだ始まったばかりなので、具体的な対応は決まっていないので判らない」と言われ、「問い合わせの件は会議で決まったら連絡させていただきます」と言うことで担当者は席を立った・・・・が!そこで私が「どうやって連絡するのですか?」 「私は、名前も住所も電話番号も何も言ってませんよ!」 この担当者はどうやって私に連絡するつもりだったのか?
つまり始めから連絡する気など無く、ただただ窓口から追い払うのだけが目的で対応していたのだった。
現に、名刺を渡したにもかかわらず、その後8ヶ月たっても連絡は無かった。
その後12月に母の介護認定の結果が通知された。要支援2であった。何の特記事項も無い。このままでは15年近く乗っている電動カーのレンタルも取り上げられてしまう!
年末、急遽市役所に行き、事態の説明を求めに行ったが、そのときも担当者の対応に思わず怒りが爆発した
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